
やった!
amazonへ、ついに来ました辛口レビュー♪
本の切り口としては好意的に捉えてくれているようですが、
「ブログ日記の範囲を出ません」
「文章がぶつ切り・読みにくく・うまくまとまっていません、特に終章はひどい」…。
女装本としてならきっといいものも出ているのだから、
そこへあえて出すのであれば新しい切り口でないと!
…なんて思いにあれもこれもと自身の想いを重ねて詰め込んだ本。
詰め込みすぎていることに加えて
既定ページ数へ納めるために注釈や序文・解説・接続詞なんか削りまくった、
そのことへの正しい評価だね。
後半〜特に終章は自己満足な暴走。
確かに。
確信犯。
そこは編集に手間取った部分でもある…ってことは、
それだけ勇み足をしてしまっていたり・
それだけ尾ひれはひれを付けてしまっていたり・
それだけ端折り過ぎてしまっていたりしたってこと。
でも自分の想いと重なって読み返す頻度が多いのも後半から終章なのだし、
「終章はひどい」
…哲学視点の偏在さと、そこにある温度差を確認できたということなのかなぁ…。
感謝します、ありがとうございます。
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途中で「この本はブログだ」と気付いたので、ふつうのブログを読む心理状態で読みました。端的に言うと、内容ではなく人格を意識する感じです。
星はふたつですが、僕自身は(終章も含めて)面白く読みました。星は2つですが、なるべく手に取ってもらえるよう、レビューは好意的に書いたつもりです。
終章は、「言いたいことは分かるけど、論理的でない」という感じです(男脳!)
たとえば、いまパッと開いて出たページで、
> (生存本能みたいなものは)「父と子と聖霊」「霊と魂と肉体」三位一体といわれるうちのいずれかひとつ、その有力な情報ではあるのでしょう。
> あとのふたつはどうしたいのか? なんとでるか?
> ブチ切れたDNAが暴走したりして……www
三位一体というのはキリスト教の言葉で、父と子と聖霊は同じ存在という意味です。
三つで一つ、という意味なので、「あとのふたつ」というのはありえません。三位三体になってしまいます。
「霊と魂と肉体」が三位一体というのも、よくわかりません。「霊魂」と言われるように、その2つは大まかな意味で重なり合っています。霊と魂が別々で、それで三位一体を成している、という説明があればよいのですが……。
p154に「人に求めすぎてしまったmoyaを感じます。何も求める必要はなかったのでしょう」とあるのに、
p155には「求めている時が一番幸せ」とあって、求めるのはいいことなのかわるいことなのか分からなくなってしまいます。その直後に「つまり今すこやかに在ること、そのありがたさがいちばんの幸せなのかもしれませんね」とあってよけい混乱します。「求めないことがすこやかにあることなの? でも、『つまり』を使ってるから、求めることがすこやかなこと?」とまた混乱。
どういうことだと思って次の文を読むと、求めること云々は書かれていない。
そしてその文章でも「考える葦は自由なのか? 葦って植物だから歩けないよなあ」と疑問が湧いてきます。でもそこで文章は終わり。
段落ごとの飛躍も激しく、いっそう釈然としなさ(もやもや)が募ります。まァ伝えたいことはなんとなく分かるのですが……。
「同じような」とレッテル張りをするわけではないのですが、読んでる最中に、ピーコさんの「片目を失って見えてきたもの」を思い起こしました。読んだことはありますか? きっと気に入ると思います。
コメントはもちろん、レビューを本当にありがとうございます♪
面白くお読みいただけたとのこと、嬉しく思います!^0^
moyaが今抱いている想いを無理やり詰め込んでしまったので、いきなり結論ばかり並べたてた観念論。論理的じゃありませんでした…反省;
(男脳へは訴えにくい…moyaの身辺では比較的女性から好評をいただきやすいと思っていたのですが、そんな理由もあったのかもしれませんね)
三位一体…moya自身それを見聞きして理解しているわけではありません。はっきり言えばわかりません。
しかしどうやら肉体だけではないんじゃ…なんて思っている時に「父と子と聖霊」「霊と魂と肉体」いわゆる三位一体という表現に気が付き、moyaは得心・納得しました。
それを強いていえば「異次元同位体」とでもなるでしょうか、漫画やアニメにありそうな表現ですが。ww
五感…特に視覚に頼る私たちは見えているものがすべてと思いがちですが、それは光を介して得られる情報に過ぎません。恐らく四つ目の軸であろう時間だって私たちは見ることができません、しかし時間は認識しています。五つ目・六つ目…見ることはおろか想像もつきません。
左脳で論理は理解できなくても、右脳で直観的に得た感じとでも言いましょうか。
見えないもの・わからないものを言語で表現しようなんて無茶な話しです。 …とはいえそんな無茶をくり返して進歩・成長してきたのが人間でもあり、否定してしまうのもつまらない。(苦笑
誤解を恐れずに言えば「神と人と霊魂」というのが、近しくわかりやすい言語(日本語)表現ではないのかと思っています。
例えば光の三原色レッド・グリーン・ブルー、これも三位一体です。調和がとれてきれいな白い光になっているところでレッドが暴走して強く主張してしまったら、合成された色はレッド寄りになってしまいます。あとのふたつグリーンとブルーも強めないと調和された白い光は得られません。
…もしも異次元同位体のひとつであるmoyaの在り方が暴走しているとしたら、あとのふたつはどうしたいのか?なんとでるか?
こんな感じでいかがでしょう?お汲み取り頂けるとうれしいのですが。。。
求める一説はmoya自身の理解を追っています。
求めたものが得られずに憤ったり悲しんだり、自分の感情に翻弄されている人を観て自分を観て…
まず、人に求めすぎてしまっていた自分に気がつき。
↓
数年後…いたずらに求めないように心がけていたある時…
(そうして)求めている時が(そういう機会があることが既に)実は幸せだったのですねと気がついて…
↓
数年後…(求める求めない云々ではなく)今心身健やかに在ることだけですでに幸せだったのですねと気がつきました。
「考える葦」については、思考・思想・在り方についての思いです。
弱い葦は大地に根を生やして立っているけれど、風が吹けば揺れて動じてしなやかに(弱弱しく)受け流し…時には倒れ、そうして受け流したり乗り越えた後に風が止めば成長していく強さがあります。風に動じないような木は風が強くなればいつか折れ、死んでしまいます。その葦は自分で考えることができ、精神を持つことでより賢明により自由に在ることができます。
自由な心で健やかに成長していくさま…そんなふうに意訳しています。
パスカルご本人の想いはわかりませんが…(⌒⌒;
「まァ伝えたいことはなんとなく分かるのですが…」
心残りのないように、たとえ論理は破たんしても言いたいことを言いつくさないと…なんて想いで原稿と向き合っていましたので、なんとなくでもお汲み取り頂けたならそれが何よりうれしいです♪
「片目を失って見えてきたもの」は読んだことありませんでした、是非今度読んでみますね!
(^0^/