先ずは子供の頃の記憶から…
感情に溺れて口汚く罵り合い、会話が破綻していることすら気が付かない夫婦喧嘩というもの、それをたびたび目の当たりにしていました。
相手の言葉や態度からその意向・真意を汲み取ろうとはせず、問題解決など忘れ去られて折衷点を探すこともなく、主張だけがぶつかり合う痛ましい光景。
哀しい感情に包まれます。
小学生当時…担任先生からの連絡事項を自習時間のクラスメイト全員の前で声も大きく伝えた際、連絡事項の矛盾を指摘する言葉が返し浴びせられました。
それに対して私は【言われたことを伝えているだけだからわからないことは後で先生に聞いて・それは聞くまでもなく自分で考えればわかるだろうし自分で考えるべきことでしょう?!・それはわからない・それは聞く必要のあること?・だからそれは後で先生が来てから確認して!…
】
想いは巡りますが、それを上手に言語化し相手に伝えて納得させることのできない自分への無力感と、疑問の解決ではなく追及が目的になったような雰囲気に、子供の私は耐えられずパニックに陥りました。
哀しい感情に包まれます。
中学生当時…登校拒否していた私が久しぶりに登校、校舎内を歩いている時に体育教師に話しかけられます。
「なんで出てこないんだ?やるべきことはわかるだろ?いじめられているわけでもないんだろ?やる気がないのか?ふざけているのか?甘えているのか?」
最初のうちはそれなりに答えはしていましたが、終わる気配無く続く話に私の目からは悔し哀しの涙があふれ…その涙を拭うこともできず、私は上を向き涙を堪(こら)えます。
思えば同様のやり取りは各学年当時の担任や学年主任や校長先生…諸氏と、幾度となくありました。その都度世間にありがちな登校拒否児童の登校拒否理由をひな型にしつつ、傷ついた少年を演出したり・おどけて見せたり・大人に憧れて背伸びした感じを見せたり。
子供心に感じていた漠然とした違和感、それを解ってもらいたい…しかしその当時の私の言語能力・コミュニケーション力・伝える技術・ボキャブラリーでは到底伝えられない、解ってもらいたい…でも解ってもらえる人はいない。
じきに涙は湛(たた)えきれずに溢(あふ)れ、雫となって流れていきました。「なぜ泣くんだ?」とはその体育教師の言葉。
当時の私自身、違和感を違和感として捉えていませんでした、だからなぜこんなに涙が溢れるのか不思議で…。(泣かせるような言葉を使っているわけではなかったので、その体育教師もさぞ不思議に思ったことでしょう^^;)
怖がっているわけじゃない、悲しんでいる?それほどまでにいったい何を悲しんでいる?
今振り返ってみると、当時から私は…悲しいんじゃない、哀しんでいたんだね。
哀しい感情に包まれます。
もうどうでもいいと死を強く願ったのはこのころのこと。
哀しい感情に包まれます。
そして現在…
悔いることも多々あります
私を信じての頼みごとを受けて、その人の期待に応えることができなかったようなとき、なんで私は!…って哀しく思ったり。
人に対し真剣に応えようとして真剣に問いかけている私に対して、私を馬鹿にしたような茶化した応えをもらうと感情が高ぶるのを感じます。
もちろん冗談のつもりなのでしょうが、冗談として笑える人と笑えない人がいます。
人によって対応を変えたくないと私は思っているはずなのに、いつからこんな?!
しかしこの人はこういう冗談を言うんだ=そういう視点・感情をその人は私に対して持っているってことだね?
哀しい感情に包まれます。
メディアに意識を向ければ、哀しい感情は山盛りにもらうことができます。(苦笑
度々・事ある毎に、しかし強く感じる感情、哀しみ。
私は何を哀しく感じているのか、掴みかねていましたが、最近ふと思い至りました。
自由自在の否定に聞こえて、それに反応しているのかも?
哀しい?
それは、自由自在にあるべきって心の叫び?
壁の表面的な取り繕い方やそこで壁の内側(=私自身)と調和のさせ方とか、幼いころから磨かれてきただけあって変な技術は長けてきたようです。
(だから「もや(moya)」なんてあだ名をもらったりするのですが。^^;)
結局私自身が壁を作っているのは間違いありませんが、無邪気・純粋・天然キャラで装った壁は内側とも調和させやすく、それは一定の成果。
その違和感=哀しみは今に至るも解消されていませんが、その違和感=哀しみも醍醐味の一つと、楽しんで行こうと思っている今のmoyaです。
そんなmoyaが自分を振り返って見ているのですが〜。
【怒り】・【支配】・【恨み】・【復讐】…
それらはネガティブワードだとすぐにわかります、ネガティブであり・非生産的であり・不毛であり…。
それらには子供の頃から違和感を持っていました、本能的な嫌悪感なのでしょう。
哀しみがカルマの親分であるのなら話しは早くてありがたいのですが、そんな簡単なもの?って疑問にも思います。
開放すべきカルマ・トラウマということで、ここで上げられるべきキーワードはネガティブでなくてはならないのでしょうか?
自由自在って、私にとっては一つのキーワードのような気がしています、
心のクリーニング=授業を受けて、以前から何度となくカルマの親分を探しに行くのですが、未だに見出せません。
…関連して一つ昔話を思い出しました…
当時moyaを支配・僕(しもべ)としていたIというガキ大将(=親分)はライバルへの恨みと怒りから復讐を誓い、moyaに指令を下します「罠にかけろ」と。その指示による罠とは…イージートラップにも程がある!トラップと言うのも恥ずかしいほどで、非常にバカバカしく思いつつも実行犯だったmoyaは無事(?)ライバルを罠にかける前に先生に見つかって、ガキ大将と一緒にmoyaは絞られます。
^^;
愛しているからこそ哀しむことのできる自由自在さ。
そんなこんな思いを巡らせていて、何気に目にしたRELさんの書き込みに共感しました。
「型にはめられること、みくびられることに対する怒りがある。」…そういえばあるある!
それは怒りというより嫌悪感〜憤(いきどお)り〜哀しみだけど…似たようなもんじゃん!(笑
なんだ、私もかわいいところあるじゃん!
…ってその哀しみは押し付けられた評価への拒絶反応?
私のキーワードが「自由自在」だとすると、ここでもしっくりきます。
掘り下げる方向が違う?
いや〜、暗中模索なもので〜;
前か後ろか右か左か上か下か先か後か…どちらかの方向へ進むことができているのでしょうか…。
^^;
それともここで昇級課題って段取りが違う?
いや〜、わかってないもので〜;
これも一つの手掛かりにさせて頂けるとありがたいです。
^^;;
感謝します、ありがとうございます。